もう限界
愛知県 青野多美子 (36歳 主婦)

 〈やっと眠ってくれた…〉そっと布団におろした途端、目を覚まし泣き声をあげる。〈うるさい、寝ろ〉、そのまま泣かせっぱなし。自分が生んだのに可愛いなんて思えない。子育ては腹の立つことばかりでした。

 私は母親に甘えた記憶がありません。夫婦喧嘩(けんか)が絶えない共働きの家庭。母は炊事(すいじ)しながらいつもイライラ。私は「あんたが悪い」と叱られるばかり。母にとって、言いなりのいい子でした。

 学校でも相手に〈嫌われないように〉神経を使う。自分に自信がもてない。人に認められたい思いが大きかった。

 23歳で結婚し、26歳で出産。育児雑誌の通りにはできず不安になるばかり。子どもなんて本当は欲しくなかった…。

 ある日、よちよち歩きの娘を放っておいたら、近所の人が連れ戻してくれた。「どうも」と笑顔をつくり、内心は〈よけいなことを〉。泣きっぱなしの娘を見ると胸がスカッとする。そのたびに〈私みたいな母親、いない方がいい〉、自責(じせき)の念と自殺願望にかられました。娘と二人だけの時間が苦しい。同じ幼子(おさなご)をもつ友達を誘っては出かけるようにしていました。

〈やさしくしなくちゃ〉と思う。でも、できない。〈私が知らない愛情を、なんでこいつに!?〉わけのわからない怒りと嫉妬。このままでは娘が危ない…。
 

 病院に通いカウンセリングを重ねるうちに、見えてきた。この苦しさの原因は、私の育てられ方。30年間、母の「そうだね」の一言は求めても叶(かな)わなかった。その悲しさを、いつも励まし続けてくれる叔母さんにぶつけると、「もう許してあげようね」と。その気持ちになれて心の整理がついたんです。

 親子をよくしたいと、いろんな講座にも顔を出せるまでに。そしてある体験発表の席、「酷(ひど)い母親」と非難覚悟(かくご)で自分をさらけ出すと、同世代のお母さんが何人も泣いて共感してくれた。〈孤(ひと)りじゃない。もう逃げるのはよそう〉。娘と向き合う気力が湧(わ)いてきました。            

 無心に遊ぶ小学生の娘。それは私が求め続けてきた姿。〈自分らしく生きてね〉と思う。あなたを支えるお母さんになる。あなたが生まれたお陰で、ここまで変われた。ごめんね、そして…。ありがとう。

(平成17年3月掲載)

戻る

もう限界
滋賀県 秋山京子 (36歳 主婦)

 〈何で私をほおっておくん? 寂しいねん。私、あんたの何なの?〉、独り言が癖になってました。

結婚し、仕事をやめて主婦業に専念。翌年生まれた長男は心臓に疾患(しっかん)があり、子育てには気が抜けません。主人は「仕事だ」「つきあいだ」と家を空けがち。ほかに女がいたんです。

二男を出産した後、5年間の思いが遂にキレてしまった! 二人の子を抱え家を飛び出ようとすると、「ひとりで出てけ!」。パニクって車を走らせた。携帯電話のコール音―「どこにいてる?」父の怒鳴り声に、ハッと気づくと自殺の名所にいました。子どもの頃から怖いだけの父が「何で話してくれんかった」と泣いている。ギリギリのところで父の思いが私を止(とど)めたんです。

でも、その日以来、主人とは別居。顔を合わせれば、子どもの親権を巡って争うばかり。夜も眠れず、酒に逃げ、ガリガリに痩(や)せて、〈助けて…〉

そんな状態のとき、幼稚園仲間のお母さんが声をかけてくれた。〈人に言うてどうなるん〉と生きてきた私が、心の内を泣きながら吐(は)き出した。その人は深夜何時間でも繰(く)り言(ごと)を聞いてくれるんです。他人の私に何でここまで?

「パパ、どこ行くの?」別れて暮らす主人の後ろ姿を追う、我が子の気持ちさえ私は思えなかったのに…〈このままやったらあかん〉

「帰ってきて」、初めてカッコつけずに口に出せた。「お前は強い女だろ」、「私のこと、何にもわかってない…」、「俺は家庭を壊(こわ)すつもりはない」、「こんなんじゃ壊れちゃう…」。

夫婦だからと、わかった気分になってただけ。主人は私に甘え、私は主人に求めすぎてた。お互いにそう気づけて、やっと私たち夫婦は変わったんです。

長男は小学校に入学し運動会を楽しみにしていました。医師と相談しながらも前日まで決心がつきません。その晩、息子の寝顔を見つめながら、「走らせてやろう」と主人。〈ここまで、どんな思いで…〉出かかった言葉をのみこみ、私は「うん」と頷(うなず)いてました。

その後、一切の運動を禁じられた息子。翌年手術のための最終検査で、回復していると意外な結果。「よう我慢したな。何欲しい?」、「靴。走ってもええんやろ」と息子。主人とふたりで、思わず4足も靴を買ってしまいました。

(平成17年1月掲載)

戻る

もう限界
大阪府 中沢恵子(31歳 会社員)

 娘のことを心配し、一家の大黒柱で家族を守ってくれる。そんな友だちのお父さんが羨ましかった。子どもの頃から長い間、私は、“父を父とは思えなかった”。 

 42歳で病に倒れ布団屋を廃業。週3日、人工透析を受けに家と病院を行き来するだけ。「俺は病気なのに、なんや!」。癇癪(かんしゃく)を起こしてはお膳までひっくり返す暴れ様。それが私の父だった。

 3人の子と働けない父を抱え、早朝から夜半まで働き通しの母。私が高校生の頃、鉄工所でプレス機に指を挟(はさ)まれた。病院にかけつけると、笑顔を見せて「たいしたことないよ」。包帯に包まれた手を見た瞬間、大声で泣いてしまった。〈大好きなお母ちゃんを、こんな目に。みんなお父ちゃんのせいや!〉

 アルバイトで頑張って自力で高校、専門学校と卒業。父とは相変わらず口をきくこともない。一日中ぼおっとテレビを観ているだけの父が疎(うと)ましかった。

 職場では上司や同僚とぶつかってばかり。私は悪くないのに、もう限界。

 ある日、泣いている姿を母に見られてしまった。「掌(て)を合わせてごらん。それで決めてごらん」と母。目を閉じてみた。なんだか心が落ち着いた。そんな日を何日続けただろう。

 あるとき先輩に、「こんな大変な仕事、よう一人でしてはったね」と思わず口に出た。その日を境に先輩の態度が好転。どうして? 自分の姿が浮かんできた。間違いを指摘されれば言い訳や口答え。人のせいにばかりしていた…。

 父と2人で外食したときの情景が蘇(よみがえ)った。「恥ずかしくないか? こんな俺と一緒で」と父。…お父ちゃん、いっつもそんなこと考えてたんだ。私のことを思ってくれてた。父の居場所をなくしてたのは、私かも…。

 昨年、父は「俺も人の役に立ちたい」と難病連絡会を立ち上げた。20年ぶりの生き生きとした父の姿。仕事、できる人やったんや。悔しかったろうなあ…。

 「お前、ほんまは、生まれてこない方がよかったと思っとるんやろな」突然そんなこと言う父に、あわてて応えた。「そんなことないよぉ」、胸が痛かった。〈お父ちゃん、私たちの誇りだよ〉

(平成16年2月掲載)

戻る

父娘って…
東京都 松本理子(27歳 自営業)

 「出て行け!」、 「そっちが出てけばいいじゃない」言い返した。10数年、父は家を出たり帰ったりの繰り返し。それでも家庭をどうにかしようとする母。「離婚」 という言葉が子ども心に突き刺さった。普通の家庭がほしかった…。

 夢だったデザイナーの仕事に就いて、みんなに羨ましがられた。でも心には、ぽっかり穴があいていた。いつも突然、怒りだす父。言葉の暴力を浴び、顔色を窺(うかが)いながら育った。〈可愛くないんだ…〉。思春期には、体が父を拒絶し、素直に口がきけない。恋愛にも臆病だった。〈自分に自信がもてない…〉、そんなそぶりは誰にも見せず、元気な自分を装ってきた。

 同じような境遇の友達から「ギャンブル好きでも、お父さん、好きなんだ」という話を聞いても、私にはそうは思えなかった。〈親なのに、どうして?〉、そんな私の苦しさを、どんなときでも、叔母だけがすべて受け止めてくれた。「必ず明日はあるのよ」と。

 24歳のとき、独立開業した矢先に、父の会社が倒産し行方知れずに。自殺さえしかねなかった父。痩せ細って、やっと帰ってきた瞬間、母と一緒に泣いていた。

 あおり倒産をくらっても、「お前たち家族を守らなければ…」と一人で辛さをしょいこんでいたんだ。ぶっきらぼうで口下手で不器用な父…。それまでのわだかまりが少しほどけた。求めても叶わなかった普通 の家族。あんまり近すぎて、みえなかったんだ。父に近づけた自分が嬉しかった。

 ある日、うたた寝してたら、「風邪ひくぞ!」と父の声。そっとかけてくれた毛布の温もり。〈私、本当は甘えたかったんだよ、お父さん〉


 「デザイン、変わったね。無駄な線がなくなった」と仕事先で言われる。

 先日、地域で小学生を相手に絵の講座をもった。夢中で絵を描く子どもたちの視線と見守る親たちの笑顔。いつか絵本作家になって、世界中の親子に優しさや励ましを届けよう。あのときの叔母のように…。

(平成15年10月掲載)

戻る

痛い!
福島県 伊藤哲也(34歳 会社員)

 気にくわない奴を階段の上から蹴り落した。〈やってやった!〉、悪いことだと思わなかった。すぐキレる。人を殴ると征服した気分で気持ちいい。小学生の頃からだ。いつもイライラしていた。

 口で言い聞かせるより手が先に出る、職人気質の親父が怖かった。でも飛んでくる拳など体に痛いだけ。どってことなかった。暴走族でならし、高校卒業直前に強制退学。裏街道の稼業まで身を落とすのは自然の流れだった。はみ出し者の居場所はここしかなかった。

 23歳のとき遂に両親が離婚。家も人手に渡り家族はバラバラ。母を捨て、他の女性に走った身勝手な親父を〈ぶっ殺してやる!〉

 自分も多額の借金を抱え、新聞沙汰まで起こしたが、何も感じなかった。

 3年ほど経った頃、ある社長との思いがけない出会い。「過去は清算してやる。俺と一緒に真面目に働け」と言う。その兄貴のような若さと、有無を言わさぬ眼力に押されて、鳶(とび)の仕事に就いた。カタギの生活はきつかった。給料の大半は借金返済、プライベートは一切なし。創業まもない会社が軌道に乗らないにもかかわらず、社長は身内以上の思いで寝食を共にしてくれた。

 礼儀を欠いたり、言い訳すると、社長の拳が飛んできた。痛い!強烈に響く。体だけじゃない、心の底までこたえた。

 「お前がまっとうになって嬉しい」とお袋は泣く。社長と引き合わせてくれたのは実はお袋だった。親の思い…問題を起こすたびに、教員室で頭を下げてた親父のことも蘇(よみがえ)った…。7年ぶりに会った親父の弱々しい姿。ひと言、「すまん」と。心が痛んだ。

 命がけの現場、無鉄砲な若い連中と本気で向き合い、ときにヘルメットの上から殴る。 帰路、「痛かったろ? ごめんな」

 


 こんな自分でも、「あんたみたいになりたい」という後輩が出てきた。「いいことは順送りしろ」と社長。熱くて、情があって…、社長のようなカッコいい人間になりたい。

 もうすぐ子どもが生まれる。世の中の役に立つ子に育てるために、きちんと話のできる父親になろう。

(平成15年11月掲載)

戻る

逃げたい、けれど…
愛媛県 新倉ひとみ(34歳 自営業)

 夜間保育に初めて、八カ月の娘を預けた日、料理の仕込みを黙々と続けながら、主人はひっそり泣いていました。借金取りがどれだけ来ても、泣きも騒ぎもしなかった主人が、初めて見せた涙でした。

 突然、主人の実家の借金を背負う羽目になったのは、念願の店をもち、軌道に乗り始めた矢先のこと。借金返済の督促電話、店への嫌がらせ。

 ――「いつも子供のそばにいてやりたい。あったかい家庭にしたいな」「人を雇うぐらいはできるさ」――、結婚当初の夢が崩れていくばかり。

 「息子に借りて何が悪いの?」――姑が言うのを聞いて主人を責めました。「何で!?こんな大事なこと言ってくれなかったの!!」。黙って聞いているだけの主人にまた腹が立つ。目の前が真っ暗。乳飲み子を預けて働くなんて、体裁だって悪い。もう誰にも会いたくない…。 

 そんなとき私の母から思いもかけない言葉。「一番つらいのは誰か、よう考えてみなさい」。――自分の親だから、何も言わず、すべてを受け入れ、苦しんでいる主人…。〈夫と一緒に背負えるのは、私しかいない>――。

 自分が選んだ人生、逃げても何の解決にもならない。そう思えたとき、姑から「悪かったね」と。

 私が中学一年のとき両親は離婚。母に去られた後、泣きながら盃を傾けていた父…。花嫁姿を一目見るだけで帰って行った母…。そんな別れ別れの父母が、連絡を取り合い駆け回ってくれました。心の痛みを知る両親だから、どん底の私たちを支えてくれた。父は一言、「お前の家庭は俺が絶対に守る」と。

 見栄っ張りの私が〈ないもんはない〉と裸になれたとき、バラバラだった家族がひとつになれた。それが、ずっと探し求めていた“家族”でした。


 夫婦で必死に働いて5年。トンネルの先に光が見えてきた。娘と楽しそうにお風呂に入る主人に声をかけました。「よくやったよね、お父さん!すっからかんでパンツ1枚買えんかったもんね(笑)」。

(平成14年12月掲載)

戻る

「ことば」
宮城県 斉藤 理香子(39歳・主婦)

 8歳と4歳になる息子が競うように、電話口で、単身赴任先の主人と話している。「ママにかわるね」と長男。私が受話器を耳にあてる間もなく、ガチャン!!
電話が切られる音が響いた…。

   主人とは大学の同級生。結婚してからも、ふたりでテニスにスキーに海外旅行にと学生時代のノリのまま。でも子どもができると、私は仕事を辞めました。
 子育ては想像以上の大仕事で、〈何で私ばかりがこんな思いを?〉――男が子育てに協力するのは当たり前。「お風呂に入れるのは、あなたにお任せ」と、毎日主人の帰りを待ち構えていました。
 次男が生まれて1年。ある日、主人が背を向けたまま、「もう、うんざりだ。離婚しよう」――。愚痴ひとつ言わず何でも聞いてくれて、人一倍子煩悩(こぼんのう)な主人の、突然の変わり様。
「私が何したっていうの!? 一所懸命、子どもを育ててただけじゃない!」。 
 それからは家庭内別居。いつ出ていかれるか――、怖くて…逃げたい。主人は、実家の父が「頼む」と頭を下げても、聞く耳をもちません。転勤辞令を口実に単身で赴任してしまったのです。
 もう身動きがとれない…そんな私を見かねて、親身になって話を聞いてくれた人がいました。泣きながら、初めて心の内を訴える私に、「人のせいにばかりしていない?」と。えっ?〈他人にどうこう言われるなんて〉と生きてきた私を、そのひと言が解(と)き放してくれた。
 「頭にきちゃう」「気に入らない」――夫を小馬鹿にするそんな世間の主婦の姿は、私そっくり…。主人が仕事でどんなに疲れきって帰ってくるか、思っても見なかった。両親や義父母の心配りを当然としか思えなかった…。口が裂けても言えなかったひと言が、初めて自然に出ました、「ごめんなさい」。


 「いっしょに暮らそう」、思いもよらない主人からの電話。
 この夏休み、主人の赴任先に遊びに行きました。長男の顔が明るく輝き、みんなの笑い声が戻ってきた!〈あなたじゃないと駄目〉。ふたりの両親も含めて、心が溶け合う家族になりたい…。

(平成14年11月掲載)

戻る

「ことば」
大阪府 大谷 裕見子(主婦)

 道に寝転んで抵抗する長男を、片腕で次男を抱っこしながら、引きずるようにして保育園に連れて行く毎日。〈この子がおれへんかったら…〉、必死の思いでなだめていると、声がかかりました。「放っておかれへん。連れてってあげるわ」

 “ハイハイを始めた”…育児日誌に記しながら、息子の将来を夢見ていました。3歳までが勝負!と、幼児教育の本を読んだり。でも長男は、『育児書』通りには育っていかない。
「なんで、でけへんの!」「なんでわからへんの、こんなことぐらい!」
“普通”に執着し、いらいらして叩いてしまう。短気な主人は怒るばかり。息子はおびえた目で親の顔色を窺(うかが)うようになりました。〈この子はどうなっていくんやろう…〉、よその家族がみんな幸せそうに見えました――。
 そんなとき、その声の主、Kさんとの出会いがあったのです。人に干渉(かんしょう)するのも、されるのも嫌な私は、不安をひとりで抱え、他人にはわからないと決めつけていた。ところがKさんは、長男が先天性脳障害と言われる自閉症児だと知ると、自分のことのように一緒に悩み、泣いてくれた…。そんな人がひとりいてくれるだけで、私は心を開くことができた…。この子の人生から逃げたらあかん。
 息子は“普通”の子のような発達はしない。でも、諦めかけていた文字が書けた。乗れない自転車を走らせた。辛抱(しんぼう)強く接すれば、この子のペースで成長している。私にも、主人にもわかってきました。この子は、この子。そう、一人ひとり、みんな違って、いいんです!


 保育園時代から一緒に育ち、9歳になるKさんの娘さんがいったそうです。「障害者をヘンな目で見たらあかん、リョウ(長男)と力を合わせて生きていく」と。「リョウ君がいてくれたから、人を思える子に育ってくれた」と、Kさん。  子の将来が気がかりで、お金を残すことばかり考えていた。でもリョウは、気づかせてくれたのです。人と人との繋がりこそ、財産なんだと。

(平成14年10月掲載)

戻る

「ことば」
京都府 鍋倉麻里(29歳・主婦)

 嫉妬にがんじがらめになって、毎日いらいらしては当り散らす自分が、本当は嫌で嫌でたまりません。〈どんだけ忍耐強くやさしい夫でも愛想つかされて当然、私が変わらへん限り夫の気持ちは戻ってきいひん…〉、口が過ぎる性格をなんとかしたいと努力しました。でも言いたいことを我慢しては1カ月で爆発、また1カ月我慢しては爆発。「私が待ってるのに、ほかの女の人と会ってたんかあ!」「なんで黙ってるんや!」その繰り返し。 こんな自分やったら、離婚すんのが楽(らく)なんちゃうか…、誰かに聞いて欲しい…。とうとう友人に打ち明けました、「昔はあんなに楽しかったのに…」。話し終えると彼女が言いました、「いつも私が私がって、自分のことばっかりやね。まわりの人達、しんどいんやないんかな」。えっ?
  そのときから、主人に言い放った言葉の一言ひとことが浮かんでくるんです。「共働きなのに、なんで私だけ?家事手伝ってえや!」「休日くらいゆっくり寝かせて欲しいわ!」「安月給で…」。夫は気持ちの休まる場所を求めたんや。それなのに責めるばっかり…。初めて気づいたんです。傷ついたのは私だけやない、言葉で主人を傷つけてた!


 「お疲れ様」「お願いね」「ありがとう」そんな言葉が自然にでるようになると、主人が変わってきました。言わなくても手をかしてくれたり、少しずつ心のうちを話してくれるようになったんです。その主人の自然な仕草や笑顔が嬉しくて、嬉しくて。夫婦は妥協やと思ってたんです。我慢しあって一緒に生活するんやって。そうやなくて、思いやりなんや...。
  いま、生まれて間もない娘を二人で育てながら、家族のことを思ってくれる夫の姿に〈ああ、この人でよかった〉。この子の命を大事に育てていかなあかんな、母親である私からちゃんとしなあかん...。自分も大事、でも人の幸せを願える自分に変われたことの方がもっと嬉しい。
  母に言われました、「顔つきが変わったよ」と。とはいえ、まだまだ私は“発展途上国”。これからもいろんなことが家族にふりかかるでしょう。でも「オムツかえてえや!」なんて言い方はもうしません。「モエ(娘)と朝のコミュニケーションしてみたら?オムツ待ってんでえ」って(笑い)。言い方ひとつで、人生変わることありますからね。

(平成14年1月掲載)

戻る

よろこび
鈴木 明(37歳・高等学校教諭)

「うるせえ」「馬鹿野郎」「ぶっ殺すぞ」
毎朝暴言を浴びながら、転任早々の私は登校する生徒たちに「おはよう」と声をかけ続けた。「"ございます"をつけろ!」「テメエに挨拶されたくねえわ」生徒の罵詈雑言は日毎にエスカレート。〈もう教師を辞めたい〉と何度思ったことだろう。私には、熱意ある教師としての自負があった。だが…。〈この子たちを、どうしたらいいんだ?〉

〈自分はなんの取り柄も価値もない人間〉という思い込みが、生徒たちを捨て鉢な行動に走らせる。それは幼いときから親の温かさを知らず、教師に見捨てられてきた子たちに共通の感情…。中学2年生まで勉強も運動も劣等生の私には身に覚えがあった。荒れた生徒を見ると〈ああでもしないと、あの子のプライドが許さないんだろうな〉と同情してしまう。
 一歩間違えば私も非行に走っていただろう。その私を救ったのは「お前なら、頑張ればできる」という担任のひと言だった。そして勉強ができなくても、何があっても「あんたは大事な子」という祖母。無条件に私を受けとめてくれる人を、それ以上心配させることはできなかった。
 「お前はダメな人間だ」と言われ続けた子どもにとって"大事にされている"と感じるのは、よい方向へ伸びる原動力なのだ。些細なことでも「偉いなあ」「よくやった」と。そのたったひと言のほめ言葉で、前向きになった生徒の姿を、私はどれくらい体験したことか。

 気になる生徒には無視を覚悟で声をかけた。「どうしたぁ」「なんでもないならええわ。心配だったもんで」「やけおこすなよ」。それ以上の深追いはしないけれど。つき過ぎず、離れ過ぎず、感情に流されず、相手を認めてあげる。私の評価基準が一定していることも、生徒たちの信頼感をつくっていったようである。「おはよう」という私に毎朝、「死ね〜」と応戦した子が、ある日、照れ臭そうにいった。「先生、ごめんな」

 先生だからいうことをきくのではない。人間対人間の関わり。その大切さを私に教えてくれた教え子たち。卒業後に「先生、酒飲もう」とやってくる子。最近は結婚式に招かれることも増えた。その晴れ姿を見ながら、私は心から思う。〈ありがとう。教師を辞めないでよかった。お前たちに出会えて本当によかった!〉

(平成13年9月掲載)

戻る

福岡県 甲斐田美妃 (27歳・主婦)

 長男に"自閉性障害"の診断が下りた病院の帰り道、気が動転して私は思わず車のアクセルを踏みこんでいました。

 公園で遊ぶ子どもたちの輪からポツンと一人外れている息子。人と関わることが苦手で、マイペースで自由に行動するわが子が恥ずかしい。切ない思いと同時にイライラして、「何で遊べんと!」とつらく当たってしまう日々―。一流のものを手に入れたい、そんなブランド志向の私にとって、妊娠したときから未来の青写 真も出来上がっていたのでした。

 お受験の塾に入れてエリートコースを歩ませる。いつもNo.1で、誰もが羨(うらや)む自慢の息子―。活発なイイ子が理想だったのに。仕事も結婚もトントン拍子できた私が...。死にたいほどの挫折感。

 自閉症は生まれつきの脳の機能障害で、心因性の情緒障害ではありません。でも世間では、母親の愛情不足だとか、何かショックな出来事で心を閉ざしてしまったのだろうとか誤解しがちなんです。周りが私たち親子をどんな目で見るのか。他人の評価ばかりが気になる私でした。


 そんな私に向かって母は、「純粋な心をもっているよ」と長男の長所ばかりを褒めて聞かせてくれました。回転するモノに固執する長男を「将来は機械関係に進むといいね」、そんな風に言ってくれた父。義父母からも責める言葉は一つもなく「大変だろうが、頑張って」と。

そして「人と同じじゃなくてもいいじゃないか」、主人のその一言で、心の中の大きな塊が溶けていくような気がしました。

 もし私を支えてくれる家族がいなかったら、イライラが高じて、わが子を叩いて殺してしまっていたかもしれません。

 5月に5歳になる長男は、理解ある保育園のおかげで、人より遅いけれど、この子なりのペースでゆっくり確実に歩んでいます。わが子の歩みに合わせて、行きつ戻りつしながら、私も少し成長しました。人の言葉や視線で傷ついて初めて、自分が人を見下すような人間であったことに気づいたのです。

 ブランド志向の無意味さ、愚かさ。この子に出会えてなかったら、私は今頃どんな母親になっていただろう? いま、障害児教育に携わる準備をしながら、もうすぐ3人目の子を産みます。

(平成13年3月掲載)

戻る

大阪府 杣谷 桂(24歳 調理師)

 「ねえ、ねえ、お母さん...」「こんといて、あっち行って、シッ!」
 眉間に皺(しわ)寄せて母が言う−、「なんやねん、犬みたいにあしらわんといて! あんたの子どもやんけ、クソババア、オニババア!」「誰に向かって口答えしてんや」、母の手が飛んできます。その目をにらみ返しながら、心の中で叫んでた。[母親やんか! なんでやさしい言い方してくれへんの?]

 私のこと、憎いんや−。こっちを向いて欲しくて、仮病を使うこともありました。中学に入った頃には、早退、欠席、教師からの呼び出し、問題児になっていた。でも、やさしい祖母や父が悲しむ顔...、それを想うと、悪い子にはなりきれなかった。こんな自分はもう嫌! 変わりたい。素直になりたい。お母さんのこと本当は大好きなのに......。


 そんなある日。近所のおばさんが、母に、「わが子がかわいくないんか。あんた、いまみたいな母親してて、この子らを駄 目にしてええんか」と。母親の愛を知らずに育った私の母。どんな親になっていいのかわからなかった。母も変わりたかったんです。

 「こっちおいで」初めてやさしい声で言ってくれた日のこと。「お母さんな、心臓弱かったやろう......」。妊娠したとき、産んだら駄 目だと医者に言われたと。「そんなときな、思わず、自分の体どうなってもええって、先生に頼んだんやで......」
 自分の命と、とっかえっこの覚悟で、私を産んでくれた!?  私の命、自分より大切やったの?「お母さん......」 、胸のつかえが消えていくようでした。言葉では言えなかった、[......ありがとう!]

 いま調理師として幼児院で働いています。施設は食事も世話も行き届いている。精一杯の愛情を込めて、私は毎日ご飯をつくる。だけど、お母さんの代わりはできない。どんなに自分勝手な理由で、わが子を虐待したり捨てるような母親でも、子どもたちが待っているのは−、お母さんなんです。

(平成11年3月掲載)

戻る

父の涙
東京都 福島 薫 (26歳・看護婦)

 「悪いけど、お父さんと離婚することに決めたから。身勝手なあの人のせいで...、犠牲になるばっかり...」。突然の母の電話に、一瞬耳を疑いました。

 「女の幸せは結婚して家庭に入ることだ!」。看護婦になりたいという私を許さず、口をきいてもくれなかった父。少しでも逆らえば、「女は口答えするな!」。

そんなわが家の中で、母は愚痴ひとつこぼさず耐えていた。

 妹と2人で話したものです。「この親で、よくグレないよねえ私たち」。 看護婦になりたての頃、父が電話してきたことがありました。開口一番、「どんなに大変でも、患者さんからの『ありがとう』、その一言でおまえは報われるんじゃないのか」。つらいとも、一言もいわないのに...。"ただ苦労させたくなかった。憎くて反対したんじゃない。私のこと思ってくれていたんです"


 酔うと口癖のように、「この家族でよかった」という父。仲間をかばい会社を辞めて、ゼロから工場を始めた父の必死だった姿。 「お母さん、この20年、お父さんと一緒に積み上げてきたじゃない。離婚なんて、子どもはつらい。弟はまだ10歳なのよ」。2人を前に叫んでた。いままで折れることなどなかった父が、初めて涙を流したのです。

 母は「...お父さんの面倒見きれる人、私しかいないって、お父さん知ってくれてる...」。幼い時、両親が離婚し、自分の親のぬくもりを知らない父。そんな父のこと、やっぱりわかっているのでした。「お父さんと喧嘩しちゃった」「大丈夫?」「大丈夫よ」 素直に自分を出せるようになった母。 "お父さん、受けとめてくれたんだ"   私は、この家族でいたい。東京にいる私の支えなんだもの。

(平成11年3月掲載)

戻る


栃木県 並木 栄子(39歳・保母)
 「うるせんだよ。わかってんだよ」
「何?その口のききかた! 親を何だと思ってるの!」、言うなり娘に手が出てました。
「もっと叩けよ!」激しい剣幕で食ってかかります。
「そんなに憎い? 私が嫌い? 私が死ねばすっきりするんでしょう!」

 公立高校に受かって欲しい、その一念で、顔を見れば「早く勉強しなさい」。自分を抑えきれないのです。「何でわからないの? あんたのためを思ってなのよ!」

 主人はちっとも頼りになりません。思いあまって、知人に心情を打ち明けると、 「どうして信じてあげられないの。自分の子じゃないの...」 その言葉を聞きながら、母の姿が蘇ってきたのです。娘を妊娠して間もない頃、嫁ぎ先での暮らしに馴染めず、つらくて、心細くて、でもじっと胸におさめて、毎日耐えていた遠い日の出来事−。ある日突然、実家から母がきて、「ちゃんと食べなきゃ」、言葉少なく、ウナギの蒲焼をそっと手渡してくれたんです。


 勝手に生んだくせに...少しも振り向いてくれなかった母をずっと恨みに思ってた。でも、私の身を案じてくれた。わかってくれてたんです。"生まれてきてよかった"あの時、そう思わせてくれた母−。 我に返りました。娘の心を少しも覗こうとしなかった。"お前のため"と言いながら、世間体や身勝手な思いで、追い詰めていた。「私なんか、いらないんでしょ!」娘はそう叫んでいたんです。「お母さんの思いばっかりお前に押しつけていた。ごめんね」。 言った途端、娘は声をあげて泣きだしました。「本当はお母さんが大好きなんだよ、大好きなの...」

 子の幸せを願わない親なんて、いません。「勉強しなさい」相変わらず言ってます。「わかってるって」とにっこり応える娘。それにしても、「高望み、するな、それは、お前の子」、前からそう言ってた主人。私のこころ、本当は補ってくれてたんですね。

(平成10年9月掲載)

戻る